もう一度運命のタイマーを回して いぶし銀の青春が動きだす 〜イエローモンキー復活によせて〜

新聞記者を8年強やって、ライターをしたあと無職になって初めての年越し
失業保険ももらい終わり、いよいよ仕事をせねばと思っていた2016年の1月
そのニュースは突然やってきた


ザ・イエロー・モンキー再集結


まさかと目を疑った
でも心のどこかでその可能性を捨て切れなかった自分もいた


どこから話そうか、イエローモンキーがわたしにとってどれだけ大きな存在かを


それこそ「バンド」という括りでは、初めて好きになったのが彼らだった
まずわたしの音楽変遷から語りたい

音楽に本格的にのめりこんだのは、中学2年のころ
小沢健二に出会ったのがきっかけだった
王子様キャラで売り出し中だった彼のキャラクターに惹かれたのだが
彼の音楽はホンモノだった
中学3年にあがる前の春休みに、人生で初めての「コンサート」を体感する
それが「オザケン」だった
(一時期それが恥ずかしいこともあったが、今となってはコアな音楽ファンに熱烈な支持を受け続ける彼の音楽に惹かれた自分のセンスに誇りを持っている)


そのコンサート直前に買った雑誌が、彼のどアップ顔が表紙を飾った
rockin’on JAPAN
そこからわたしの人生は狂いだす


まさに売れんとしているスピッツウルフルズエレファントカシマシ
ミッシェルガンエレファント
そんなバンドにその誌面で出会った
その中にイエローモンキーもいた


90年代中頃から後半にかけてはまだCDがよく売れた時代で
ゴールデンタイムに音楽バラエティも多く放送されていた


「太陽が燃えている」「JAM」「SPARK」「楽園」と立て続けにヒットし始め、
邦楽ロック史に残る名盤「SICKS」がリリースされ
そのタイミングでTRIAD時代のベスト盤2枚も世に出された


わたしはそんな97年、「LOVE LOVE SHOW」のPVのキュートさに撃ち抜かれ
本格的にイエローモンキーの虜になる
その夏には「BURN」もリリースされた
日本人なら逃れられない独特のじめじめした湿り気と憂いを帯びながらも
しびれるほどかっこいい楽曲
そのPVでは、寺山修司の「天井桟敷」的な雰囲気が全面に出されており
インタビュー記事で寺山に興味を抱いたわたしは、
そこからさらにサブカル方面へ足を踏み入れる


これまた中学3年ごろからギターを始めたこともあり、
演奏のかっこよさ、そしてルックスも含め、エマの大ファンになった
なかなか体得できなかったチョーキングができるようになったのは
イエローモンキーの曲で練習を積んだおかげだった
少ない小遣いからバンドスコアを集め、音楽雑誌を買いあさった
渋谷陽一山崎洋一郎、兵庫慎司、鹿野淳市川哲史、結城雅美…
今もこうして音楽ライターの名前だけわかるのは
このころ音楽雑誌を読みまくったからだ
なんとなく作家ではなくライターに憧れるようになったのもこのころからだった


しかし当時はしがない田舎の高校生
横浜アリーナから中継された「SICKS」の公演をブラウン管ごしに見つめるのが精一杯
ファンになったのち、直近に行われることとなったスタジアムツアー「紫の炎」は
残念ながらチケット争奪戦に負け、同じ部活の先輩の参戦を見送ったものだった


そんなわたしがようやく初めてイエローモンキーを生で見られるチャンスに恵まれたのが
98年冒頭に発表された、今振り返れば「解散の原因」となった113本という脅威の本数の
「パンチドランカー」ツアーだった


売れ線とは言い難いがどっしりとした重厚なサウンドとメッセージ、
シンプルなグッドメロディーのシングル「球根」は初めてチャート1位を獲得
わたしもツアーに行くべくファンクラブ「Petticoat Lane」(邦訳は岡場所)に入会し
7月の神戸公演(当時は震災後の国際会館仮設ホール)、9月の大阪公演、
翌年2月の大阪城ホール公演をおさえることができた
7月の神戸、9月の大阪はビギナーズラックで1列目と3列目だかで
完全に席運を使い果たしたと思った


耳鼻科ではブラックリストにあげられているといううわさどおり
当時のイエローモンキーはかなりの爆音で
1列目とはいえ最右端でスピーカーど真ん前だったため
なかなかしんどい初イエローモンキーだったことが印象深い
けれど間近で見る彼らは、高校生の自分からすると倍ほど年の違う、
当時から「おっさん」だったけれど、
筆舌に尽くしがたいかっこよさ、独特さがあり、最高にしびれたのだった
彼らが常々口にしていた「唯一無二」
これこそ彼らを形容できるただひとつの言葉だとしみじみ思った


当時はまだインターネットやパソコンが今のように整備、流通しておらず
当然SNSもなく、ファンクラブからの最新情報は専用ダイヤルに電話して得る、
友達はライブ会場や、雑誌上の文通相手募集で作る、という
今と比べれば格段にまだ不便な時代だった


できたイエローモンキー友達はみんな20代のお姉さまたちで
会社員やフリーターをしながら、時間とお金の許す限り全国を飛び回っていた
そのお姉さまたちからの、詳細なライブレポお便りが来るのが待ち遠しかった
いつも80円では足りないぐらいの厚さだった
エマちゃんのコスプレをしているお姉さんと知り合い、
ロビンのコスプレをした連れのお兄さんに写真を撮ってもらった
(へまこさんろびおさんお元気でしょうか)


いつの間にか交流はなくなったけれど、あのころイエローモンキーでつながっていた彼女たちは
今年どうしているのだろう、なんて考えてもいる


9月の大阪公演の当日は部活のコンクールと重なったけれどもちろんライブを取り、
2月の大阪公演は修学旅行と重なったけれどもちろんライブをとった
そう考えると、わたしはイエローモンキーのために学生時代の重要行事を相当蹴っている
けれどそれでよかったのだ
今もまったく後悔はしていない


その年末に出たビデオ「レッドテープ」は、それこそ擦切れるほど繰り返し見た
まだテレビやビデオデッキがリビングにしかないころで
家族が外出している隙を狙ってとにかく何度も見た
「RAINBOWMAN」、アウトロに近づくにつれ興が乗りまくるエマのギターが冴える「見てないようで見てる」は、特にお気に入りのアクトだ


ようやく高校を卒業し、わたしは大学受験に失敗して浪人生活に入った
そのタイミングで田舎を出ることができた
その春には、「SPRING TOUR」なる安直なタイトルのツアーが開催されて
初めて「2日間通う」という体験をした
2日間大阪城ホールに通った嬉しさは忘れられない
本当は1日しかチケットを取れていなかったのだが
ラジオ番組の特別電話でもう1日チケットをもぎとった
あのときお隣にいた元自衛隊員のお兄さんは元気にしているだろうか


わたしの持っているイエローモンキーTシャツといえばそのツアーのものだけ
吉井和哉が「DJブーン」とかいう意味のわからないゆるキャラたちを作り出したときだ
今みてもよくわからないがわたしはわりと好きだった
公演内容は、バンドの歴史から見てみれば、終わりが近づいている不穏な時期だったのかもしれないが、当時は最高としか言いようのない楽しさだった


そこからは、主に吉井が、バンドの方向性についてひとり焦っていたように感じた
さまざまなプロデューサーを起用したシングル
ジャージ姿でのメディア露出
ひとつひとつ、歯車が崩れていくようだった
アルバム「8」は、これまでの作品のようには、いまひとつのめりこめなかった


そこへ、活動休止の報
ファンとしては嘆き悲しんだが、なんとかドーム公演のうちの大阪会場をおさえることができた
なんと父と母まで連れて行った


最後の公演のことは、よく覚えていない
髭のエマ、スポーティーな吉井、いつもどおりのヒーセ、泥棒みたいなアニー
それでもやっぱり、ライブはどうしようもなくかっこよかった
それが私にとって最後の「生」イエローモンキーとなった


休止後まもなくリリースされた「プライマル。」は、好きなテイストの楽曲だったし、メジャーでとっても明るい曲調だというのに、当時はやはりどこか物悲しく響いたものだ


それから大学に入り、わたしは軽音楽サークルに所属した
ギター的にはエマ育ちだったから、ほんとうはレスポールが欲しかったけれど
重いし高いし弾きこなせそうになくて
当時好きだったナンバーガールのひさ子ちゃんに憧れて、赤いジャガーとブルースドライバーを買った
それほど使う用事はなかったけれどワウペダルも買った
もちろん練習したのは「Burn」だ


イエローモンキーが好きだという話もそれほどしなくなり、
コピーしたバンドはエレファントカシマシやらナンバーガールやらゆらゆら帝国やら
大学後期には特にデキシード・ザ・エモンズにどハマりした
彼らも洋楽かぶれだったから、どこかイエローモンキーに通じるものはあったのかも
GSや歌謡曲とブルースを両立させられるバンドだったものな
フジロックなんかにも行ったりした


そして2004年の8月、音楽情報サイトで「イエローモンキー、解散していた」
という見出しのニュースを知る
活動休止から音沙汰のないまま放置され、
挙句「7月7日に解散していた」という事後報告


その日の日記が出てきたので読み返してみた
「あいた口がふさがらないとはこのことだと思った」とある
翌日にはずいぶんと怒り心頭だった

「悲しいとかより驚き、ショックというか、青春の終わりをそこはかとなく感じてる。
つーかむしろ、ダセー!最低!てカンジの怒り。
ありがとうなんて呑気に言えっか!バカ!みたいな」
(2004年8月2日の日記)


イエローモンキーとともにあった高校時代
まさにイエローモンキーはわたしの青春だった
そんな宝物に、泥を塗られたような気持ちになった
今なら彼らが苦渋の決断をしたのだとわかる
いろんな大人の事情もある中で、ファンを思ってくれていたのもわかる
けれど当時は許せなかった
許せなかったけれど、私が許そうと許すまいと
もうイエローモンキーはなくなってしまったのだ
イエローモンキー熱は落ち着いていたが、とはいえ、いやだからこそ、辛かった
そこからしばらく、イエローモンキーのビデオを引っ張り出して見返したりしていた
やっぱりどうあっても、彼らの音楽は大好きで、一生逃れられないんだと再確認した


わたしの中のイエローモンキーの思い出と楽曲は消えないし消せないし消さないけれど
これから新しく思い出がつくられることはないし
わたしの中でイエローモンキーは、生き続けはしてもそれから過去のものになった


大学を卒業した私は、新聞記者になりたくて、現役当時あと一歩のところまでいった自分を信じ
フリーターとして大学時代からのコンビニバイトを続けながら
就職活動を続けていた
夏ごろにうまく地方紙にひっかかり、次の春までぶらぶらとバイト生活をしていた
その就職直前の2006年2月28日、
バイト先の後輩から、おさえていた吉井和哉のソロ公演ファイナルが急用で行けなくなったため
チケットを譲ってもらうことになった
吉井のソロは追っていなかったので付け焼刃でライブに行ったのだが
そのときも感慨たっぷりだった
このブログ内にも記録を残していた(わたしマメ!!)


吉井ソロ前日
http://d.hatena.ne.jp/sheiko/20060227/1141039725
ライブレポート
http://d.hatena.ne.jp/sheiko/20060228


吉井はソロになってもやっぱり細胞レベルで訴えかけてくる何かを感じる良さだったし
サポートギタリストのエマもすっごく素敵だった
そしてサプライズで「バラ色の日々」が演奏された…
あの会場での阿鼻叫喚は忘れられない
わたしはただただあの瞬間は嬉しくて泣いた


そのあとも私はあまり吉井のソロも、他のメンバーの動向も気にせず
あれだけ好きだったエマのソロプロジェクトも特に興味を抱かなかった


新聞記者になった私は社会の厳しさに疲れ
これまで多感な時期にハマったことのなかったジャニーズのアイドルに夢中になり
嵐のコンサートに通い、疲れた心を癒してもらった
ペンライトの美しさをここで初めて知った


そのあとは、結構EDMとかそっち方面も好きになってきて
(イエローモンキー一辺倒なころは打ち込みとか大嫌いだったのに!)
SNOOZERなんかを読んで、会社帰りに週1くらいのペースで外タレのライブに行き
めちゃくちゃ洋盤にお金をつぎ込んだりした


2010年代に入ってわたしはジョジョの奇妙な冒険にハマり
深夜アニメなどを見るようになって、
TIGER&BUNNYにどハマりし、同人活動的なものに手を出し始め
音楽からはすっかり離れた生活を送るようになった
その一方で文化関係の担当として好きだったミュージシャンに仕事で会えるようにもなった


いろんな趣味が増えたことによって、
やりたいことを仕事にできたものの、それだけという人生にも行き詰まりを感じた


いろんなことがあって2014年末で新聞記者を辞め、
2015年からwebに場を移し、ライターとして働くことになった
そんな14年末、たまたま友人たちとやった忘年会カラオケで
「90年代邦楽ロック縛り」をテーマにしたとき
わたしは自然とイエローモンキーを選んで歌った
昨今のカラオケでは、本人映像というものが流れるが
それで久しぶりにイエローモンキーの姿を見て
ああ、やっぱりかっこいいなあと再認識し、
そういえばあいつら、解散したくせに結成何周年だとかで
DVDやらベスト盤やら出してたな
相変わらずレコード会社は商魂たくましいな
なんて思っていた
帰宅して即Amazonで検索し
かつてVHSでしかもっていなかったライブビデオのDVD移植特別版を注文しまくった
解散の引き金となったパンチドランカーツアーのドキュメント映画「パンドラ」なんてものが
リリースされていたこともこのときになって初めて知り、
今ならフラットな気持ちで見られるかもしれない、と購入した
晦日の朝から届いたが(宅配業者さんごめんな)
「パンドラ」は年が明けて少し経つまで見る踏ん切りがつかなかった

2015年1月3日にそれを見た日記が残っていた
「思ってたより、ふつうに懐かしく、楽しく、
切なく見られた。成仏できそうです、ありがとう。
今見た意味があると信じたい。今年の初泣き」


その後2015年はわりとイエローモンキーをちょこちょこ聴いていたように思う
吉井のソロは聴いていなかったけれど、カバーアルバムを聴いたりなども


そしてその春にいろいろうまくいかなくなり、わたしは仕事をやめて引きこもった
いろんなタイミングが悪く重なり、心身ともに調子を崩し
外で元気に働くことがもう難しいのでは、と思う状態になってしまっていた
それでも2016年に入って、失業保険も終わったし
いよいよ仕事を探さなくては、と考えていた矢先
イエローモンキー復活のニュースが飛び込んできたのだ
(ここでやっと冒頭に追いつく)


SNSというものがある中での初めてのイエローモンキーの話題
TLの同世代たちが湧き上がっていた
わたしはこのとき、引きこもって以来最も強く
「体調崩してる場合じゃねえ」と心から思った
「何としてもイエローモンキーを再び生で見る」
これがわたしの悲願、大きな目標となった

まさかって感じだが新曲まで発表された
(はやくiTunesで販売しろ)

年会費制ではなく月額制になり、会員証も発行されない「イマドキ」な
FCの仕組みに戸惑いつつも登録し、
外タレ並みの料金に若干辟易しつつも
奇跡の祭りにケチってる場合か、と惜しみなく金をつぎ込んだ
体力、財力ともに遠征には不安があったため諦めたが
近場の公演は全て通うことにし、なんとか大阪公演2デイズ、神戸公演2デイズの
計4公演のチケットをおさえることができた
この日から私の目標は、ライブ当日を元気なかたちで迎えること、に設定された


初日の代々木公演はなんと、ラジオやCS、ネットで生中継されることになり
プロモーションの規模と、彼らの存在の大きさにあらためて驚かされた
著名人による復活1発目の楽曲予想企画などまで展開された


ちなみにわたしの予想は希望も込めて「Romantist Taste」だった
ライブバージョンが大好きな曲にもかかわらず
これまで行った公演では一度も生で披露されずじまいだったからだ
彼らのデビュー曲でもあり、初心も戻る、という意味ではアリなんではないか?
と思っていた


5月に入ってからはもうすでにそわそわしていた
そして11日、運命のタイマーが再び回り出す日がやってきた


追い出されることにビビって念のためradikoFM802をつなぎ、
映像はニコニコ生放送で見ることにした


ドキドキが頂点に達したとき、カウントダウンの19時きっかり
彼らの、そして私たちの時計が再び同じ時を共有し始めた
その一発目は「プライマル。」
彼らの「終わり」だった曲。そこからまた始まる。
こんなに感動的なドラマがあるだろうか
幕に映し出されるシルエットは、昔と変わらないスタイリッシュなロックバンドの姿
涙が止まらなかった
幕が落ち、彼らの姿があらわになった瞬間
アニーの笑顔
変わらず派手な衣装のヒーセ
言葉にならない


ああ、ほんとうに戻ってきたんだ


2曲目の楽園まで半分ほど中継してもらえてサービス!!と感激した
わたしが生でイエローモンキーに再会できるのは7月
この2ヶ月が待ち遠しかった


そしてようやく、その日がきたのだ


長々と語りすぎたけれど、これが「わたしとイエローモンキー」
ライブレポートはまた別にまとめます…笑

お付き合いくださりありがとうございました